多様性の世界

前回のブログ更新から随分と時間がかかりましたが、やっと言葉を取り戻せたような気がしている。京都公演終了後に、ある意味で言葉を失ったと言っても過言ではない。
ひと月以上を経て、いつしか年も明けていて、横浜公演までひと月を切ったこの時点で、当ブログによる言語表現を再開します。
一昨年の11月から始まった「クオリアの庭」プログレスによる移動も終盤に差し掛かっている。構想段階からすると2年以上「身体の移動」について考え、言語化し、身体化し、さらに空間化してきた。それらの作業を経て、今現在行き着いたところが一つある。それは「多様性」である。
単純に神戸、秋田、岡山、京都と4都市でのレジデンスとプログレス公演を行うだけでも、各都市の多様性に驚かされることばかりである。日本における身体が育む文化、あるいは舞台芸術と呼ばれるものは、全くと言っていいほど絶対的に一方向に進んでいない。各都市がそれぞれに自らをアイデンティファイし、(あえて言葉にするが)ローカルであることの独自性を主張することによって、全く異なる文化的アプローチをしている。それは力の差こそあれ、地方行政の文化政策に起因するところもあるだろう。
もちろん多様性に関しては、国内だけでなく世界においても同様のことが言える。言語や宗教、思想による多様性は言わずもがな。それを受け入れ、受容するのか、区別し、排斥するのか。その選択の違いによって、世界が現在どのような体制となっているのかということは言うまでもない。前述は多様性に富み、後述は絶対性に向かう。
絶対性に向かうことが、どのような結果を生み出してきたかを、ヒトは未だ直視出来ていないのか。それとも多様性を受容する力を、未だ備えていないのか。
移動する先には、自らがそれまで備えていなかった価値観が、常に存在している。
あるいは一人のジャーナリストが戦地に移動する。多様性を認めるために。