top of page

非存在の存在


 岡山での1週間のクリエーションと2日間の公演の間、私は常に作品を介して、パソコンの画面や、ノートに書かれた文字や、スタッフの言語、光や音、オブジェクト、時間、そしてダンサーの身体と向き合ってきた。作品を作るということは、そこに起こる事象と向き合うことであるのだが、今回のクリエーションの過程で、ふとした疑問が浮いてきた。

 私はこれら事象と向き合うことによって、一体何と向き合おうとしているのか。

 本来の出発点ではその部分に意味を見出すこと自体を無意味と捉えていたのだが、果たしてそこに意識が向いた後では対象として意識せざるを得なくなる。

 それを単純にコミュニティーだの、社会だの、国家だの、政治だの、情勢だのと捉える状況は既に通り過ぎ、個人的にはそれらに意味を見出すこと自体は無意味であるとは断言している。ただ、更にその先にあるもの。その存在に気づいたということなのかもしれない。それが何であるのか、おそらくは既にその存在を捉えているのかもしれないが、未だそれを言語化するに至らない。予感のようなものなのかもしれない。

 目の前に木彫りの彫像が置かれている。その存在を木彫りの彫像という物体の存在性によって捉えているのか、それともその物体の周りの空間、物体の非存在性の認識から木彫りの彫像を捉えているのか。非存在の観点からすると物体の存在は虚となる。果たして、物体の存在性の観点から虚はどこに向かうのか。

 「float_」ご来場頂いた皆様、スタッフ、そしてダンサー。

 岡山公演に関わった全ての皆様に心より感謝の意を表します

Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
まだタグはありません。
Follow Us
  • Twitter Social Icon

Copyright © M-laboratory  Works-M and photographers all right reserved.

bottom of page