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関係のない意思

 岡山でのprogress.3「float_」公演を終え、数週間。

 休む間もなく京都progress.4「past_」に向けての下準備が続く中、京都の本番まで残すところ後10日となる。個人的な体調の変化なども相まって万全とは言えない状態ではあるが、時間は刻々と歩みを止めずに移動している。常に時間に寄り添い自らの歩みを進めたいと思うが、世界の大勢は私の現状との間に深い隙間を残したままである。

 世界は私の意志とは無関係に動いているようだ。それは私に私個人の意志というものが備わっているかどうかにもよるのだが、差し当たってその関係性に終止符を打つ現状にまでは至っていない。

 意思と関係性について考えるとき、植物の持つ関係性に着目する必要がある。鬱蒼とした森の中で植物達はしっかりとその関係性を保ちながら、自らの場所と他者の場所を生成する。あるものは自らの位置に止まったまま、枝葉を拡張することなく生き続け、あるものは蔓をのばし他者の場所に拡張し続け、やがてはその場所を自らのものとする。ある植物は結実に動物の力を借り、ある植物は動物に自らの種を運ばせる。それら植物界の関係性に、意思というものは存在しない。意思のないところに、関係性が自然発生的に起こるのだ。それが自然な関係というものなのかも知れない。

 ヒトは殊更にヒト同士の関係性に強く依存する。それが現代のヒトをヒトたらしめていると言っても過言ではない。ヒトは情報化された関係の中に情報としての他者を求め、やがてはヒトそのものが情報化される。そこまで来たらもはやそれはヒトですらない。形骸化された意思のみが後に残り、関係性は関係性という名前の元に崩壊する。と、言ったら語弊があるだろうか。

 私は自分の理解を遥かに凌駕している、とてつもなく大きな意思に翻弄されながら、私の身体が生きたいようにするだけしかないようだ。その範囲はヒトよりも動物に、動物よりも植物に、更には鉱物にまで拡がってゆく。

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