事の重大さ
明日、秋田入り。
個人的な話になりますが、8月は何かと忙しかった。8月1日には私が岡山で開講している研究所であるM・L・Iのメンバーによるソロ作品集公演があり、翌週には同M・L・Iによる夏季合宿が真庭地方で行われ、また先週末には一つ前の記事で紹介した狂喜乱舞の07公演が、ゲストダンサーに岩渕貞太氏を招いて行われました。
それらの仕事の合間にM・L・I通常カリキュラム、レッスン、WS、アトリエ等。人の体を眺めることと創作に関わる仕事により、あっという間に秋田入りだなという感じです。
これら忙しい時間の流れのなかにあって、どれほどのものが自分の中に蓄積されているかと言えば、右手の親指と人差し指で摘む程度のものでしかない。ただ、摘んだものの大きさよりも、その質量の方にこそ意識を向ける必要はある。
それが、その大きさに対して、如何程の重さであるのか。
身体の重みの話を以前、当ブログでメモしましたが、同じようなことが言葉に対しても言える。
言葉の重みというものが、失われつつある現代日本。
軽さは利便性に置き換えられて、本来それが持つ意味を失いつつある。
そのままの状態で拡散する。
さらには失われつつある意味性に対して、既形骸化とも言える意味の希求によってコミュニケーションそのものの崩壊が起こる。
このようにして世界はどんどん複雑化してゆく。複雑度合いが高ければ高いほど、その分重みは分散される。
そもそもそれは、一個体から発せられているだけである。目的は先行しない。